巨大古墳の役割とは? 沖積平野の巨大な環境改善装置 第1回

環境装置としての巨大古墳の意味

大阪府羽曳野市、応神天皇陵と呼ばれる「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」です。
河内平野一角の羽曳野市周辺地域には、紀元4世紀ごろから6世紀半ばにかけて造営された多数の巨大古墳が存在し、同じく河内平野の堺市周辺地域とともに、「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」として、2019年世界文化遺産登録が決まっております。
平坦な沖積地である河内平野の一隅にあって、こうして環濠越しに墳丘(ふんきゅう)の森を目の当たりにすると、人工による築造とは思えぬ壮大さに圧倒され、感動すら覚えます。

前方後円墳の考古学的研究において、その政治目的や時代背景、墳丘墳墓の構造や古代土木の技術的側面などは、よく話題になりますが、その環境上の意味や地域経済的な側面については、ごく一部の卓越した研究者の見解が散見される以外にあまり語られてこなかったように思います。

しかし、こうした沖積平野の巨大古墳は、平地の水田開発における巨大インフラとして、環境改善上の重要な意味があったことを、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思い、このブログでお話しさせていただきます。現代社会からは想像しがたいまでの先人の深い智慧と技と視点について、垣間見ていただくきっかけになれば幸いです。

応神天皇陵の鳥瞰写真。羽曳野市観光協会HPより。

巨大古墳のふもとを歩いていると、まるで里山段丘の畔を歩いているかのような錯覚を覚えますが、こうして鳥瞰で見てみると、これらが巨大な人工構築物であることは一目瞭然です。しかも、重要なことは、これらの人工的な盛土地形は、自然界に存在しない直線幾何学的な形状であるにもかかわらず、その地形は千数百年の間の風雨にさらされた今もなお、明確に当初の形状を保っている点にあります。

人工地形がこうして1000年以上もの間、地形を変えることなく安定するためには、そこを健康な森とする必要があります。

実際に、この巨大な人工築土において地形を変えずに健康な森として安定させてゆくためには、単に土を重ねて盛り上げてゆくだけでは不十分で、土中の多孔質な構造化によってきちんと健康な森が育まれるよう、さまざまな造作が意図的に行われてきた、そんな名残も見られます。

平野に森を作るその方法や意味について、この先お話ししていきます。

巨大な古墳が点在する古市古墳群の中でも、この応神天皇陵はひと際大きく、全長約425m、最大幅300m、墳丘の高さ35mという巨大古墳で、墳丘土量の総体積は、全長日本一の前方後円墳とされる仁徳天皇陵(大阪府堺市)を凌ぐ、日本最大の古墳と言えるでしょう。

古市古墳群と周辺河川。藤井寺市HPより。

応神天皇陵のある古市古墳群は、現存する古墳だけでも大小87基を数えます。この地域の巨大古墳のほとんどが、紀元4世紀後半から 5世紀後半の100年間程度の間に集中的に築造され、その後6世紀半ばとなると、ほぼ築造されなくなったようです。

古墳の立地は、生駒山系と金剛山系の谷あいを抜けて河内平野に差し掛かる大和川が、南の葛城山系を源頭に北上する石川と合流します。その合流地点付近、2本の川に挟まれた平地に古墳群が集中して立地しています。

地図を見ていきますと、この地域にはたくさんの溜池が点在し、そして古墳の縁に存在する周壕池と呼ばれる環濠(堀)も、溜池の一環であったことが想像できます。

大和王権のあけぼのとも言えるこの時代、奈良盆地や河内平野では他地域に先駆けて、人口集中への対応や国力増強のため、人の住めない沼地が広がっていた沖積平野の水田開発が大規模に始まりました。

この時期、平野の大規模開発において、治水と利水双方のための灌漑工事が必要になります。

現代も調整池として使われる河内平野の溜池。撮影/高田宏臣(以下同、特記以外) ©︎高田造園設計事務所

写真は往時の灌漑のための溜池の名残です。平野の古墳群周辺はおおよそ、灌漑上の水脈の要であり、多数の溜池が今も点在します。それらのほとんどは、今はコンクリート護岸となり、周辺は市街地となって土中の水は停滞して水は常に汚濁し、単なる水たまりと化してしまっております。

しかし、かつてはこうした溜池が地上と地下との水の動きの拠点となって、力のある水が潜っては湧き出し、大地を介した本来の洪水調節機能をも果たしていたのでした。そこに弁天様や龍神様を祀り、その土地での暮らしのために不可欠な恵みの源として大切に守ると同時に、見えない土中から湧き出してくる無尽蔵の自然の恵みに対する畏敬の念とともに、後世に豊かな土地を育み繋いでくれた先人への感謝の気持ちまで育まれてきたことでしょう。

平野における水田利用のための本格的な開発は、古墳時代と重なります。土地改良は、素掘りの水路や堀、溜池の掘削によって、農地での利水に資するとともに、平坦地の掘削によって土中環境に高低差をもうけることで、土中の通気性・浸透性を改善し、さらに滞水を解消しながら、豊かで持続的な農業生産を可能とする土地へと改善していったのです。

この際、掘削によって大量の土砂が発生します。その一部は溜池周辺の堤や水路の堤防として用いられていたでしょうが、これが巨大古墳の墳丘の盛土に用いられたのであろうということも、指摘されています。(落合長雄、落合重信、青木敬ほか)つまり、本来河川の氾濫原の葦原であった平野での水田開発の中で、溜池や水路を掘削した土の処理を兼ねて、巨大古墳を積み上げたのです。

暮らしの環境づくりにおけるすべての資材は、その地域の自然の循環の中で充足させてきた時代において、古墳の造営でも実際に、そうした側面があったということは間違いないことなのでしょう。

大和古墳群の箸墓古墳。奈良県桜井市。

写真は奈良盆地の大和古墳群のひとつ、箸墓古墳です。築造は3世紀末から4世紀はじめと言われる、日本最古級の巨大前方後円墳です。

箸墓古墳と隣接する溜池。

現在、この古墳の周壕池は、古墳をぐるりと囲む環濠ではなく、大きな溜池に隣接して古墳の盛土がある、そんな形状となっております。周辺の掘削跡の調査より、かつては環濠があったのという説もありますが(白石太一郎「古墳の被葬者を推理する 中央公論新社)、この古墳には様々な推測があり、そこは、何とも言えません。現状から、この最古級の前方後円墳は、溜池を掘った土をその脇に墳墓を盛った名残の形状と言えるのかもしれません。

溜池は、水路から引水して堰き止めるものと、水路による引水はあれども、実際に掘削によって土中の水を湧き出させる、土中集水によるものとがあります。引水して堰き止めるにしても、それは土中からの湧き出し水によって、大地のフィルターを通した浄水、水の活性化が起こり、その循環が滞らなければ、土中をくぐって湧き出す水はいのちの生産力の高い水となって、周囲の農地や人の営みを豊かに支え続けるのです。

古墳の森と健康な溜池の水と空気の循環イメージ。©︎高田造園設計事務所

溜池のキワに小山があってそこが健康な森であれば、森は土中にたくさんの水を貯えます。ふもとの溜池の底との高低差でその水が下へとゆっくり動き、池底から常に清冽で力のある水が涌き出します。そして、溜池の水圧と重量によって、水は土中に潜りながら大地の水脈と連動して、溜池の中は一定量以上にならないよう均衡状態を保ちます。

すなわち大地の洪水調整機能が古墳にはあると言えるでしょう。利水と治水を兼ねた環境装置としての古墳は、土地の生産力を涵養し、かつ土地を安定させて水害を緩和するシステムとして働きます。そして、本来なら永遠に機能するのです。

大和古墳群の景行天皇陵。奈良県桜井市。

巨大古墳と脇の溜池の光景は、これはあたかも、中山間地に普通に見られる小山のキワに、集落の水源として溜池が掘られた、そんな情景と重なります。小山の森が健康であれば、土中にたくさんの水を蓄えます。そしてふもとの池底などから、清らかな湧水が得られるのです。

水を蓄えて調整する溜池の機能は、健康な森とセットで、その機能も恒常性も幾倍にも高まるものと言えるでしょう。自然に存在する小山であれば、かつては必ずそれは鎮守の杜として大切に守られてきました。そして、前方後円墳は、沼地が点在する本来扱いにくかった沖積平野をより豊かで健康なものとするために、要となる場所に人為的に築造した鎮守の杜と言えるでしょう。

そうでなければ、水田利用可能な平地において、広大な土地を森にするような贅沢な土地の扱い方は決してしなかったはずです。

古市古墳群の白鳥陵古墳の遥拝場。大阪府羽曳野市。

御陵はそのほとんどが今もなお、宮内庁管理地として厳重に立ち入りが禁じられております。当時の人たちが、この地における遠い未来の営みをも見据えて、この土地の豊かさを守り伝えるために古墳築造を行っていたのだとしたら、先人の達観と大地や人への深い愛情に、畏敬と感謝の想いばかりが果てしなく溢れます。