ポット苗と土中環境(2020.6.6)

建築資料研究社発刊季刊誌「庭」に掲載してまいりました高田の連載記事も、新著「土中環境」発刊を機に、次号240号(2020年7月発売)にて、一旦一区切りとさせていただくことになりました。

現代日本の建築・土木・造園の世界において、忘れられてしまった大切な視点を伝えたいと願い、これまで10回にわたって連載してきました。連載最後の原稿を昨日入稿し、ほっと一息ついたところです。

一区切りは、次へのスタートであります。今後も様々な場で、大切なことを伝えつつ、地球に生きる自分の役目を、いつまでも果たしていきたいと思います。

 連載最終回は、高田造園にて取り組んでおります樹木苗作りと苗木植樹から、今の時代に土中環境に目を向けてもらうことを問いかける意味について、簡単にまとめてみました。せっかくなので、こちらのブログでも加筆しながら紹介したいと思います。

コナラの一年生苗。

写真は、私たちが生産しておりますどんぐりのポット苗です。

コナラやクヌギ、シイ、カシなど、日本の森林における階層構造の中で高木層を占めることのできる樹木を中心に生産し、植樹してきました。

穏やかで恒常性の高い森林特有の微気候を作るのはこうした高木樹種であって、その力は森林内の下層植生樹種とは比較になりません。

日本の森林階層における高木樹種を中心に植樹することで、街の環境、住まいの環境を大きく改善することができます。だからこそ古来日本人は、街道沿いや屋敷の外周、道の辻や水路沿い、土手沿いなど、街中の要所に高木樹種を中心とした森を作ってきたのでした。

暮らしの環境を豊かに保ってきた木々の見えない働きが忘れられつつある今、改めて街の高木の意味と役割を伝えていく必要性を感じております。

東京都江戸川区、植樹前(2013年)

ここは東京都区内の接道スペースです。わずか30センチ程度の幅においても、高木樹種のポット苗植樹によって街を潤す環境へと変えてゆくことが短期間でできるのです。

こうした場所で木々を健康に育てるためには、植樹の仕方だけでなく、相応の土中環境の改善が不可欠になります。

植樹終了2013年(サクラ、コナラ、ウバメガシ、シラカシ、アラカシ、シャリンバイ他)

数か所の縦穴に炭と有機物を漉き込み、そしてマウンドを盛り上げて苗木を密植混植します。樹種の選択は、在来の森林における高木樹種に加え、照り返しや乾燥に強い中低木自然植生樹種を組み合わせて、アスファルトの照り返しにも強い樹林を期します。

2018年6月(ポット苗植樹6年後)

この写真は先のスペースに高さ数10㎝のポット苗を混植して6年後です。木々の枝葉が二階窓を潤し、そしてその木陰がアスファルトを覆います

ほんのわずかなスペースでこれほどの植栽環境つくりが可能になるのは、苗木植樹ならではのことでしょう。また、木々は成長しながら土中の環境をさらに育み、土中深くから涼しく清らかな空気を引き上げて、乾いた街を心地よく潤していきます。

街の緑は所有や敷地区分に関係なく、一体の環境として考えねばなりません。

また、苗木からの環境の育成を通して、土中で繰り広げられる神秘的な営みに目を向ける、そんな機会を提供できるのも、こうした取り組みの意義の一つと考えます。それは同時に私たち自身が、ポット苗の土中環境が自律的にバランスを取ってゆくプロセスからたくさんの学びを得る機会にもなります。

2020年6月、新緑のシラカシポット苗

当社生産のポット苗です。

春、ポット苗は一斉に新芽を伸ばして圃場は柔らかな新緑が密集します。

 我々の栽培する圃場では、こうした密な状態であっても、春から梅雨時期の葉先の柔らかい時でさえ、虫や病気が蔓延することは決してありません。もちろん、農薬散布は一切行いません。

 苗木が自律的に健康を保つ理由は、ポット苗の土中環境にあります。

樹木剪定枝

これは樹木剪定において発生する剪定枝葉です。すべて、土中環境改善の資材として、大切に用います。そしてこれが、ポット苗用土の原料になるのです。

 太い枝や幹は土中環境改善にそのまま用い、そしてこうした細かな枝葉は山林内に堆積して、腐植土にしていきます。半年ほど木陰で堆積しておけば、程よい具合の腐植へと醸成されていきます。

剪定枝堆積6か月後の腐植から、太い枝を外し、竹炭と燻炭を混ぜる

そしてこれが、剪定枝堆積後半年経過した腐植に、竹炭と燻炭を混ぜて攪拌したものです。

これを用土として用います。分解されずに形の残った枝もまた、用土に混入させ、苗木を植えたポットの中でさらに分解・土壌化を進めます。肥料は一切用いません。肥料を混入してはいけない理由は後に説明します。

腐植、新しい落ち葉、竹炭、燻炭を混合

ポットの中で、有機物が分解してゆく過程で土中の菌糸が増殖します。その菌糸のネットワークを介して、土に還ってゆく有機物のいのちの力がそのまま苗木へと受け渡され、分解の進行と歩調を合わせるかのように緩やかに健康に成長していきます。

 完熟した土ではなく、分解途中の腐植を用土に用いる意味はそこにあります。分解過程でのいのちの受け渡しが重要なので、腐植の土壌化が進みすぎているときは、この土にさらに落ち葉を混ぜます。

根鉢の細根と菌糸

この生死の循環をポット内で実現するためには、有機物の健全な分解過程がポット内で実現することが必要で、こうして育てられたポット内にはびっしりと菌糸が張り巡らされていきます。

この健全な土中菌糸こそが、生死の循環を司り、動的平衡状態を保つ不可欠な役割を果たすのです。

庭でも圃場でも、ポット一つにおいても、健全な土中環境における滞りのない生死の循環サイクルを心がけることから、現代の私たちが見失ってしまったものがたくさん見えてきます。

 土と肥料で育てられた苗木と、こうした菌糸との共生環境で育てた苗木、その土中環境を以下に比較してみます。

一般的な用土と肥料で生産される市販の苗

これは一般的に作られるポット苗です。

根はすぐにパンパンに張り、そして土壌はスポンジ状の団粒構造が形成されず、菌糸もほとんど張らない、なおかつ乾燥しやすいのが、一般的に目にするポット苗です。

これは、ポット苗の用土に肥料を混合されることで菌糸が健全に育っていかないこと、土中の空隙が少なく、またポットの空気穴の少なさなどに原因があります。菌糸の後退したポット内土壌に分解されずに残った有機物や肥料の残留物が酸化し、土中の循環サイクルを損なうのです。そうなると病気や虫の食害が広がりやすく、一般的には農薬によって対処されます。肥効によって植物体は早い成長を見せますが、その成長の仕方は決して健全なものではありません。根鉢の大きさに不相応なバランスで地上部が激しく成長してしまうため、植樹時もしばらく風で倒れやすい状態が続きます。

 これが現代一般的な方法で、目的である植物を効率よく生産するために不自然なことを繰り返しつつ、土地を傷め続けているのが実情でしょう。園芸ばかりでなく、土中環境の視点をもたず、農薬と化学肥料のセットで土地に負荷をかけながら高い収量を確保しようとする慣行農業もまた同様の問題を抱えながら、現代の食を支えているのが現実です。

健康なポット苗

これは、私たちの生産するポット苗です。腐植土と落ち葉、竹炭燻炭などの炭化物のみを用土にしており、ポットの中でスポンジ状の団粒土壌が保たれます。土中微生物も豊富に生育します。菌糸の付着も早く、その菌糸が空気中の水分を捕捉するため、ポットは水やりを切らしても乾燥しにくくなります。

 この状態では、病虫害の蔓延は起こりにくく、また、根がパンパンになることもありません。苗木はこの与えられた環境の情報を適切に把握し、そこで自律して生きようとします。

そうなると、ポット苗管理はとても楽になってくるうえに、その作業すら楽しみと発見が増していきます。

 ところが、ここに例えば固形化成肥料を一粒ポットの表土に置いたらどうなるか、たちまち苗木はポットの大きさ不相応に成長し、そして、根はパンパンに張っていきます。そして菌糸は消え、乾燥しやすい細粒土へと変貌していくのです。

 つまりは、苗木が「自分はこの大きさのポットの中にいる」ということを把握できず、いわば、自ら考えて自律的に生きてゆく能力をも失います。

20年間植え替えせずにバランスを保つ樹木鉢

20年間水やりの他に何もしてこなかった素焼きの鉢の中で、アラカシ6本の他、様々な植物が共生しています。アラカシは森の高木として樹高30mに達する力強い樹種でありながら、ここでは置かれた環境を自ら把握して、人の手を煩わすことなく、その場所で土やほかの植物と一緒に持続的に生きてゆくのです。

鉢物は植え替えが必要とか、肥料が必要とか、その植物にどんな用土がよいとか、PHがどうとか、一般的な園芸指南書や教科書には、そんな一面的な知識の羅列がなされるものが多いようですが、そんな視点で植物と向き合っていても決して、本質的な理解には至らないでしょう。

植物本来の野生と知性を取り戻すには、健全な土中菌糸によって大地とつながることが必要であり、そんないのちに対する人間の見方扱い方が間違いである限り、植物は量産される家畜のように心を閉ざし、どこか矛盾と脆さを内在していきます。

 まるでそれは、現代文明に忍び寄る、感染症による危機のようです。

いわゆる植物の三大栄養素に基づいて、植物体に直接「えさ」を与えるという発想は、目的の植物の成長を促す点で一見効果的な結果が得られます。しかしながらそれは環境全体の繋がりを無視したものであり、本来一体である土中環境をともに育まねば必ず環境は劣化し、思いもよらない問題の連鎖を招いてしまうということを常に考える必要があるでしょう。

 植物や土の世界を見ることで、現代社会の一般認識や科学、技術の矛盾が見えてきます。

 自然の理が見えないままに行動することを、仏教の世界では貪瞋痴(とんじんち)と言います。一見現代文明は進化したようでありながら、真理に根差すことのないものは、結局は副作用と大きな苦悩の連鎖から逃れられないということを、古来先人が伝えている、それが貪瞋痴、という表現に凝縮されているように思います。

 小さなポット苗の中でさえ、確かな宇宙の営みを見せてくれるのですから、私たちはそれに気づく感性を取り戻すことから始めなければならないのでしょう。

今の世界環境の危機的な状況を助長することしかできない現代社会。その負の連鎖を克服するには。人間や文明の短絡的な目的や都合に環境を従えようとする発想を転換し、矛盾のない自然の循環全体に我々が従ってゆくにはどうしたらよいか、そんな発想へと戻してゆく必要があることでしょう。

なお、今回のブログの内容は、要約の上、庭誌7月1日発売号にて掲載されます。どうぞ合わせてお読みいただけたら幸いです。