2020年7月11日、岐阜県瑞浪市大湫神明神社(おおくてしんめいじんじゃ)のご神木、樹齢1300年といわれる大杉が突然倒木しました。このことは大きな豪雨被害の続いた時期においても、新聞やテレビでも大きく報道され、多くの方の記憶に新しいことでしょう。
1000年以上もその地に生き抜いてきた巨木が倒木するには、それなりの兆候や理由はあるはずです。本質的な部分から原因を見つけ出し、問題点を明らかにしてゆくためには、見えない土中環境や、それを支える水脈環境から想起していかねばならないのですが、残念ながら、こうしたケースでコメントする樹木専門家の多くは、そこまでの視点も視野もなかなか持ち合わせていません。
そのため「原因は不明」とされて、土地の歴史の記憶が消えていきます。
また、こうしたことが起こるたび、大木は危険物のように思われてしまい、土地の環境を守ってきた巨木大木はまるで大根のようにぶつ切りにされたり、簡単に伐採されてしまうのがここ数年よく見かけることです。
なぜ倒木したのか、その原因から見ていくことで、適切な対処や状況の把握も可能になります。木は土地環境とつながって生きているので、広域の環境から見ていかねばなりません。それなのに木の健康度と対症療法的な処置ばかりしているのが現代の実情です。
1000年以上もご神木を大切に守り育ててきた先人の知恵や姿勢にかんがみて、現代の対処や環境への向き合い方から見直さねばならない点が必ずあります。
地域を見守ってきた大切な御神木の倒木を決して無駄にしない。
そのような願いから、倒木後ひと月あまりが経過した8月17日、私たち地球守にて現地調査に入ることになりました。
大湫神明神社は旧中山道沿い、山間の小さな集落ですが歴史は古く、江戸時代には宿場町として栄えてきました。古来、人の営みが絶えなかった地域風土には、地理環境的に豊かな理由があります。
大湫神明神社周辺は周囲を山に囲まれ、湧き水が集まり、そこに肥沃な沖積地が生じ、おそらくここでは近世以前から水田利用されてきたことがうかがえます。つまりここは、山間において集落となる環境上の豊富な恵みが得られる条件があり、その水の要を守ってきた場所のひとつが、旧中山道沿いの神明神社でした。
写真は神明神社境内、ご神木の下から湧き出す水をたたえる池です。2つあるので、これを仮に「一の池」と呼称します。
古来、清冽な水の湧き出すところは集落の要として大切に守られてきており、その湧き水の上部山域を神域として未来永劫にわたって大切に守られるよう、そこに神社が配されます。
水の湧き出しは石垣等で守られ、湧き出し口の周辺の木々もまた、山から水を引き込む役目を担うものとして守られてきました。こうした湧き出し口の木々は元気で大木となることが多いのは、清冽で力のある水が活発に動く場所だからでしょう。
水が健康に土中を抜けて滞りなく動いていれば、大木の根は水中に浸かりながらも枯れることなく、池底に根を張り巡らせていきます。
根の伸長に伴い、土中にはたくさんの伏流水域が増えるにつれてますます、水も生態系も豊かに育ち続けます。
湧水は「一の池」から「二の池」へと流れ、かつてはこの水が生活の用として用いられたのち、道沿いの水路を流して土地を潤し、そして田んぼの用水にも使ってきたことでしょう。
かつて水は、人間の用だけでなく土地を豊かに潤しながら、環境を養い、そのためきれいな状態で川へとお返ししてきたことでしょう。
ましてそれが神域からの恵みとなればなおさらです。
この「二の池」は数十年前、池底をコンクリートで固められ、そして水は排水桝から排水されるようになりました。
水が水道や用水路を通してよそから運ばれるようになるに伴い、湧き出す水はそのまま不要のものとして排出されるようになったのですが、本来大地を涵養すべき水を、大地水脈に返すことなく、そのまま川に捨ててしまうことが、気づかぬうちに流域の健康をじわじわと損ない、そして現代の国土環境、山林の荒廃劣化にいたる要因の一つにもなりえたと考えられます。
また、池底は高低差によって本来山からの絞り水が湧き出しては潜る、そんな呼吸を繰り返す場所であったのですが、これがふさがれてしまえば、池底の土中水は停滞し、腐敗して根も後退してゆくことは想像に易いことでしょう。
コンクリート打設による池底の閉塞は数十年前のことですが、これによっても、この池底に根を張っていたであろう大杉の根はかなりのダメージを受けたことでしょう。
また、湧水量もこれによって減少したことでしょう。ここに限らずに、例えば堰堤や護岸構造物等による川底の伏流水の停滞は、湧き水を減少、あるいは停止させていきます。それは上部山域の貯水性減少、樹木階層構造の劣化等とセットで進行します。
しかし、その程度で長年の湧き水は減少すれども枯渇することはなく、ご神木も生きながらえてきたのでした。ところが、2~3年前から、この「二の池」の水質が目に見えて変わったようで、そのことは神社の隣で大杉を見守ってきた住人の方が詳しく話してくださいました。
2〜3年前から、池の水に濁りの膜が浮くようになったと言います。そして池の水を汲みだして掃除してもまた、腐敗したような汚濁の膜が水面を多い、濁るようになったと言います。
このことはごく最近に、流域において水脈環境における何らかの変化があったことを意味します。
地下水の停滞が水の腐敗を招き、還元力を失った水は、さまざまな動植物の遺骸や代謝物などをスムーズに循環に還してゆく力を失い、腐敗し、命の循環を支える力を失います。
こうなると、根と同様に土中菌糸もまた後退し、連鎖反応のように土の団粒構造も崩壊し、ますます周辺土壌が水をしみ込ませて貯水する力を失います。
それによる根の後退がこれまでにも進んできた中で、ここ2~3年に起きた水脈遮断による水の停滞による腐敗、汚濁、還元力の低下が、根系の急激な後退、を招き、そしてこの巨木の倒木に至ったと考えられるでしょう。
では何か急速に水脈環境を壊してしまったのか、近隣住民に聞き取りしても、周辺環境の変化をもたらす事態については判明せず、まずは社域周辺を注意深く観察します。
ご神木は拝殿正面に位置し、社殿は裏山を背負い、山の傾斜が緩やかになる、その地形の変わり目に位置しています。こうした地形においては、湧水が得やすく、それ故にここが古来神域として祀られてきたゆえんでしょう。湧水、表層水脈環境の健康具合は裏山の状態と連動するので、まずは社殿背面から見ていきます。
本殿と裏山の段差の石垣は昔のままですが、石が乾燥してコケも後退している様子から、裏山からの水の停滞がわかります。
この原因は、かつては必ずあったはずの、石垣の下の素掘りの溝をU字側溝にしてしまったこと、それによって石垣下からの水と空気(以下風水という)の動きが停滞し、それが裏山の貯水性にも影響していったことがわかります。
もし、ここに本来の溝があれば、社殿を超えてこの溝にまで大杉の根は到達して水を上下に動かしてきたことでしょう。
こうしたこともまた、ご神木の衰退をゆっくりと招く一因になったかもしれませんが、しかしそれもまた、ずいぶん以前からのことで、今回の水質の変化の直接の原因にはなりえないでしょう。
荒廃した裏山では斜面崩壊が今も進行していることが、むき出しの表土の乾いた状態や、崩落斜面際の枯死木や、残存木の枝葉のつけ方、幹の傷み具合、斜面のえぐれかたなどから読み取れます。
住人のお話ではこの崩壊はずいぶん前からのことですが、竹林の進入具合と残存木の状態を見ても、ここ数年でますます土中環境の荒廃は進んでいることがわかります。
幹折れや倒木の跡もあり、崩壊が進み、さらには表土が硬化し、裏山山林では雨のたびに水がしみこまずに表層を削って流れていることが分かります。
ただし裏山の荒廃の進行もまた、現在は多くの箇所で連動するように起こっていることで、それが千年の大木の倒木に至った理由とするには無理があります。
倒木したご神木周辺はまだ立ち入り禁止となっておりますが、役場に調査許可をいただき、根元の状態を観察します。
巨木にもかかわらず、根は少なく、そして中央部分は枯損して固くなっている様子が分かります。
本来、1000年の大木となるとその多くは、樹幹中心部に大きな空洞を作ることで樹体を軽くして、環境の変化に耐えて生きながらえる状態を作っていきます。
生きた根量の少なさを見ると、空洞が足りないように感じます。この重さでよく耐えてきたというか、それ以上に土中水脈環境の変化が急すぎて、空洞を作って身軽にするのが追い付かなかったと言えるかもしれません。
樹幹芯部分の枯損の状態と、外周の樹幹組織の増殖具合を見ます。
枯損部分は本来、菌糸が腐植状態となってゆくことで、芯部分にしっとりとしたスポンジ層を作り、それがゆっくりと空洞となっていくのが本来の巨木の長寿戦略と言えます。
このスポンジ部分に、上部の枝か根を張ることで、枝は下から水や養分をあげることなくこの中心部の腐植部分から水や養分を得て元気に樹幹や幹枝を増殖していきます。
こうした空洞は、落雷や台風による先端折れ箇所から雨水が入りながら徐々に進行し、太さのわりに少ない根の量で生き延びる体制を整えていくのです。
ところが現代、こうした貴重とされる古木に落雷があると、それに対して樹木医的に余計な処置をしてしまうのです。
この御神木においても、2004年の被雷の際、先端部を7m切除して防腐処置を施すという、現代らしい対処療法がおこなわれました。
本来、落雷によって、樹幹内の空洞形成や樹高の矮小化が加速し、より健康に長くそこに立ち続けられる状態へと移行しようとしているのに、その自然の意思や意図を解せず、余計なことをしてしまい、またそれが老木の衰退に拍車をかけて木々を苦しめてしまう、そのことに気づく必要があります。
「落雷で枯損した部分の落枝が危険」とは、よく聞く理屈ですが、実際に木々はよほど急激に傷まない限り、太く重い枝をそのまま落とすことはなく、よく乾き、軽く腐植のようになった分解途中の枝をぽろぽろとやさしく、落としていきます。昔の人がそうしてきたように、なるべく余計なことをしないで老木の往生の全うを見守りながら、手を添える、しかも自然の意図に沿ってそれを行う姿勢に戻ることが必要です。
自然の摂理に基づかない対処は全て、環境に負荷を与え、木々の健康か生育環境を知らず知らずに奪ってしまうものです。
こうした大木の根返りした下のくぼみには、水が停滞して腐敗しているケースもよくあるのですが、ここはさすがに1000年超のご神木、その土中にも空洞が無数にあって試掘のための鉄棒はすっと深くまで入り込み、そして腐敗臭もありません。
でも、この状態を放置して泥つまりさせてしまえば、さらなる環境の悪化を招いてしまいますので、このくぼ地の適切な処置が必要になります。
ただ、それが土中環境視点を持って対処する技術体系はまだまだ普及しておらず、なんとか我々が直接指導して対処する道を開きたいところです。
こうして大木の倒木があるたびに、残存木もまた不安視されてしまい、伐採の方向に向かうことが良くあります。が、木を切ってしまえば、長年この土地で木が果たしてきた環境機能や水脈を含めた土中環境を安定させる大切な機能も失ってしまうもので、伐採せずに適切に改善して安全な状態を保つという視点が大切です。
非科学的と言われそうですが、あえて申し上げると、木々を慈しみ敬い守る人の気持ちは必ず木々に伝わり、逆に人や暮らしを木々は身を挺しても守ってくれる、これは誰が何と言おうが私自身の確信であり、そしてこのことに共感納得される方も多いことと思います。
大湫神明神社のご神木は、通り沿いで周囲に古くからの住宅が立ち並んでいるのにかかわらず、実に絶妙な位置に倒木して、その被害は奇跡と言われるほどに、ごく最低限で収まりました。もちろん、人的被害はありません。
実際に現地を見て、この絶妙な倒れ具合に涙がにじむ思いです。
きっとこのご神木は、大切にしてくれた地元の皆さんに最大限の感謝をもって倒れ、そしてなにかを伝えようとしたことでしょう。
私たちはそれを確かに受け取って、ご神木の意思を継がないといけない、ご神木もこの土地に生き、そしてこの土地の土に還してあげたい、そんな思いに胸が熱くなりました。倒木に至った水脈の急激な変化はどこにあるのか、決定的な理由が見いだせないまま、今回たまたま調査に同行してくれた後藤翔太君という隣町在住の友人により、このすぐ近くで今リニアの工事が進んでいることを知ったのでした。
リニア中央新幹線は瑞浪市において、全線トンネル(日吉トンネル)で通過します。そしてその工事は2016年に始まりました。これは、時系列から見ると、大湫神明神社の水脈変化に影響が及んだ時期と一致します。
計画は神明神社のすぐ下流域を通過してゆきます。実際にはまだ、その位置にまで掘削は達していないと思われますが、土中においては振動や音を根や菌糸は微妙に察知し、そして環境を一変させていきます。大地は磐根樹根を伝い、菌糸を介して一体に情報交換していて、そしてそれをマザーツリーたるご神木はいち早く察して警告を発するように倒木した、そんな風に感じています。
水もまた、環境情報を察知して変化していきます。これは言葉で伝えきれず、体感したものでなければ分からないことかもしれません。
たとえば、山形県のブナ林の山中で水を汲み続けているある知人の話では、「山の中、かなり遠方に重機が入っただけでも水の味が変わる」と言いますが、これは経験ある人は多いことでしょう。
理屈で理解できることしか受け入れられない人にはわからないことかもしれませんが、事実であり、それが何らかの形で科学的に証明されることはそれほど難しいことではないように思います。
日吉トンネルの掘削残土は異様なほどに巨大なモノレール式のベルトコンベヤーによって運ばれます。モノレールは住宅地を抜けて、そして轟音を上げて、大量の掘削残土を上部の埋め立て計画地に運び続けています。
柵の向こう、集落上流部の谷筋に掘削残土が埋め立てられます。
山地の呼吸の要である谷をつぶすことで、川は単なる大雨時の排水路に変貌し、そして流域の貯水性も浸透性も失われていきます。
こうしたことが人知れず、だれが反対しようが立ち止まることなく進んでしまうのが現代社会なのでしょう。
これが大きな自然のしっぺ返しを受けないはずがありましょうか。
大湫神明神社のご神木は、自ら大切に生かしてもらった大地、たくさんの命、そして人間に警鐘を発するために倒木したように思えてなりません。
気候は大きく変わり、そして文明はおろか、人類の生存すら危ぶまれる時代、その危機は今後ますます加速することは疑いない事実です。
そんな中、いまだこうしたことを続ける文明の愚かさ、もはや、自然によるリセットを待つほかないのでしょうか。
それはとても悲しいことに、私には思えます。
少なくとも僕が青年だったころはまだ、未来に希望があり、嬉々として夢をもって物事に取り組むことができました。
そんな希望にあふれた未来への夢を子供たち、若者たちに与えられないこと、その中で人の肌身の温かさも失われ、殺伐とした光景ばかりがますます広がり、そして今、コロナにおびえ、災害におびえ、想定外の事態におびえて暮らさねばならない中で、相変わらずに立ち止まることなく、ますます暴力的に未来を壊し続けている、この現実から子どもたちを守りたい、少しでも希望ややさしさを見せてあげたい、それが僕ら、現代に生きる私たちの役目ではないかと思うのです。
誰をも傷つけずに倒れていった大湫神明神社のご神木が教えてくれることの大きさをかみしめて生きていきたいと思います。