第1回 先人の智慧と現代の土木
はるか昔から代々暮らしが営まれてきた山河や集落、古い家屋敷地から、100年以上前からの暗渠構造物や石垣など、昔の人の造作の痕跡を掘り起こすことがしばしばあります。
古い集落や民家環境の再生作業の際、よく発掘されるのが、岩盤を削って掘られた溝の跡や、池の跡、そこに石を加工して蓋をした、暗渠の跡、土手を積んだ痕跡や石積みなど、裏山と家屋敷地との境界付近にはこうした名残が必ずといって良いほどに見られるのです。
そして、それを掘り起こすと、暗渠や石積みの際から泥と共に水が浸み出してきて、徐々にそれは水量が増し、やがて透明な清水となり、そうした箇所からはしばしば沢蟹が出てくる光景に出くわします。
長年埋まっていたはず暗渠や石垣から沢蟹が出てくるということは、埋まってしまいながらもなおそこに空隙や水の道が保たれていて、それが地上とも繋がっていることを示しています。
そしてまた、数百年経過してもなお、かつての暗渠や石垣は土中の水を集めて誘導する機能を失わないという事実を目の当たりにするたびに、未来を見据えて土地を読み解きながら、適切に手を施してきた先人の智慧の深さに深い畏敬の想いが沸き起こります。
土中環境は、多種多様な生物非生物のさまざまな作用の連鎖の中で平衡状態を作り、安定しようと働きます。
例えば、沢蟹や海老、うなぎなど、湧水を探り当て、そこが泥つまりしないように掃除するのです。自分の活動域を保つための行動なのでしょうが、それが土中の水と空気の動きを円滑に保ち、豊かな環境が育まれてゆくことにつながる、見えない働きとなるのです。
かつての人の営みも同様に、その暮らしの環境を安定させるために掘った溝や池をきっかけに、そこで始まるさまざまな生き物たちの働きが相乗して環境を育て、土地は息づき、平衡状態を得て持続的な安定を得るのです。
土地を育み繋いできた代々の先人たちは、日々の土との向き合いの中でそれを体感的に把握していたことでしょう。
人がそこで暮らしやすいように土地に手を入れつつ、環境に対しても矛盾をきたすことのない、先人の見事な土地造作の名残は、現代の営みを根本から問いかけるようです。
現代の土木建設において、移り変わる土中環境を把握してその機能を持続させ、ノーメンテナンスで100年保つということはほとんど想定されないことでしょう。
年月とともに自然の作用と一体化してゆくことを想定して作られたかつての土木と、さまざま変化しようとする自然の作用を力学的に抑え込むばかりの現代の土木との根本的な視点の違いが、ここに浮き彫りになるようです。
その大きな違いは、水に対する扱い方に顕著に現れます。
健全な水の動きが環境にもたらす不可欠な働きを見据えて造作されたのがかつての土木であって、現代のように、浸透できない水を不要のものとして土地から排除(排水)することのみを目的とした現代土木の視点とでは、周辺環境にもたらす影響は全く逆のものとなります。
そんな古来の技術の意味と奥深さを知るには、現代社会に慣れ親しんだ視点を一旦離れる必要があります。
1000年の時間の流れの中で磨かれた土地造作における伝統的な技、そこには環境にも人にも矛盾するものがありません。もしその技術が環境を痛めてしまうものであれば、それはやがて土地の生産性や暮らしの環境の安全を目減りさせるものとなってしまいます。その土地に長年住みつなぐ中で、そうした矛盾は淘汰され、改良されて来たものだけが残ってきた、それがかつての暮らしの中の土木造作と言えるでしょう。
いわば、1000年の歴史の検証を受けた、暮らしの中の叡智の結集がそこにあります。
「エヴィデンス」という言葉がまるで絶対的な正しさのように、現代の技術の根拠とされるが、それは長くてもたかだか数十年の検証に過ぎないということを把握する必要があることでしょう。
その限界についてもまた、今や多くの人が気づいていることでしょう。現代文明の営み、「科学技術の発展」とともに、環境上の問題はますます複雑に、そして危機的な状況を克服できない現実がそのことを示唆しています。
現代社会が置き忘れてしまった自然環境との向き合い方、暮らしとともに豊かな風土を保ってきた智慧と技、その意味を、この連載で深く掘り下げていきます。