第3回 砂防林の設計は、江戸時代に学べ。
砂浜の安定のプロセスについて最後に、江戸時代の日本海岸線における砂防林造営の事例をご紹介します。
砂浜を安定させるために海岸林を造営する取り組みは、江戸時代から本格化しました。特に日本海岸沿いは、冬の季節風にともなう猛烈な砂嵐にさらされ、その勢いは一日にして家や田畑を埋めてしまうほどのものだったと言います。ここでの営みのためには、砂留めや飛砂防止のための海岸林造営が必須だったのです。 そんな中、現在の秋田県、当時の久保田藩藩士・栗田定之丞が、海岸松林造営の使命を担って派遣されたのです。
猛烈な季節風吹き荒れる日本海岸において、栗田の試みは最初は失敗の連続でした。何を植えても砂に埋もれて流される。どうしたらよいか。栗田はとにかく、砂浜の動きを24時間観察し続けました。砂嵐舞う海岸にむしろを敷いて、夜もそこで寝る。そんな徹底した観察の中、ひとつの発見が彼に与えられました。
ふとみると、砂に埋もれた古い草鞋(わらじ)から一本の雑草が生えて、そこだけわずかに砂が盛り上がって風にも飛ばされず、埋もれずにいたのです。
「砂の安定のためには有機物の分解過程が必要」。そんな小さな発見が、彼の海岸林造営につながっていきました。
この発見によって栗田がやったことはまず、列状に砂を掘ってそこから枝粗朶(そだ)の垣根を地中に半分埋め、土中で菌糸を増殖させて砂の土壌化を促しました。さらに地上部の風よけを兼ねる枝藁柵を施しました。そしていきなり松を植えるのではなく、海岸に生育する草、灌木、そして土壌が安定したのを確認してから松を植える。そんなプロセスで砂漠のような砂丘を制して森を作っていったのです。
素晴らしい叡智をもって日本海岸に松林を造営していった栗田の姿勢は、明治時代以降、海岸砂防の父と言われた山林技師の富樫謙治郎に受け継がれます。富樫の自然に対する姿勢は、以下の彼の言葉によくあらわれています。
「人間の力で自然に抵抗するとか、征服するなどということはおこがましいことだ。自然に従順でなければならない。飛砂が起きたら飛砂を止めようとせず、飛砂が独りで鎮まるように仕向けるところに砂防の方法があり、決して自然に逆らってはならない」
なんという素晴らしい智慧でしょう。こうした智慧が今も普通に活かされていれば、これほどの国土の荒廃は決してなかったことでしょう。こうした先人たちの素晴らしい智慧に触れるとき、やはり、私たちはなにか、大切なところで道を誤ってしまったように思えてならないのです。