造園と開発

環境の再生、自分の道の再生~今の自分への経緯

僕が造園の仕事を始めたきっかけは、学生時代の放浪の旅の途中のことでした。
ひとり登山に明け暮れた高校時代、自然環境を守る仕事がしたいと思って学部を選択し、都内の大学で森林、林業、土木を学びながらも、まじめにカリキュラムをこなすことはなく、「見たい、行きたい、やってみたい」という衝動に身をまかせては根無し草のように、わずかなお金と大きなザックを担いでどこかに旅立つという、そんな生活を続けていました。
大学休学を決めた3年生の時、人間関係への迷い、卒業後の進路への迷いという、若き日々特有のたくさんの葛藤を抱えたまま、アメリカ中西部西海岸へと、ひとり旅立ちました。
それが僕の初めての海外の旅、目的も向かう場所も何もなく、テントを担いでの当てのない一人旅でした。
ヒッチハイクと自転車と、そして山に入ってテントを張り、現地で出会った人の車や部屋に泊めてもらい、幾日も共に過ごしたりと、今に思えば若いころにしかできない旅だったと感じます。
瞑想に訪ねる修行者のほかには誰も踏み入らないような森の奥深くにテントを張って寝ころびながら、日本とは違う森の記憶に耳を澄ませ、「自分の道が見つかるまで、大学を休学しよう」と決めたのはその時のことでした。

休学後、林業、土木、建設などの手伝いをしながらも、自分の道が定まらず、自分が何をしたいのかをも見失いつつある中で、再び旅立ちを決めて、沖縄経由台湾行きのフェリーに乗って、懐かしき沖縄の地に降り立ち、島々をめぐります。自分のすべき仕事が見つかるまで、その後はアジアにわたって働きながら旅を続けるつもりだったのです。
もともと沖縄にそれほど長く滞在するつもりはなかったのですが、2ヶ月目に入った一月のこと、お金が尽きかけて、働かせてもらったのが造園の仕事だったのです。会社のトラックの中で寝泊まりし、朝はそこら辺にいる鶏の卵を飲み込んで現場に向かう。そんな生活の中で、造園の魅力にすぐに惹かれていきました。
毎日木を植え、石や土に触れながら、みるみるうちに空間が美しく整い、住む家族の笑顔に触れる喜びにすっかり魅了され、「造園の世界に入ろう」と決めたのは、沖縄での造園のアルバイトを始めてすぐのことでした。

数ヶ月の滞在の後、東京に帰って復学する傍ら、さっそく造園修業を始めます。沖縄で造園修行を継続せずに戻ってきたことには理由がありました。「沖縄で日本庭園的な庭を作ることに何の意味があるのか?」。そんな疑問にぶつかったのです。
当時沖縄でも、大方、日本庭園あるいは西洋的なイメージといった、型にはまった庭が業者に求められていました。そしてプロと言われる人たちも、いわゆる「庭園」を設計、提供するのが通常ですが、僕自身そのことの意味がわからなくなったのです。

沖縄の伝統集落を訪ねると、フクギの屋敷林が大きな木陰を作り、集落の要の水場には琉球石灰岩の石積みの上にどっしりとしたガジュマルが居座って、森羅万象の営みを見守る。そんな光景に限りない癒しを感じてきました。これこそが沖縄の原風景です。

その地における人による土地への働きかけを自然が受け入れて、人が大地を利用するのと同様に、大地もまた人の営みの造作を利用してより豊かに息づく。その相互作用の果てに、その地特有の「風土」が生まれます。未来を思い、土地を思い、子孫を思う土地の暮らし。人の誠の積み重ねが大地の祝福を受けて、そこに風土環境が育ってゆく。このことこそがまぎれもない、地球における人の本当の役割であります。そして、その土地を守り続けてきた何気ない自然の木々を、かつての屋敷林や集落外周林同様に、庭園樹木の主木として扱うことで、山と街とが環境としてつながり、千年万年の営みと現代とがつながるのです。そこに郷土愛も郷愁も育まれます。僕がこれまで一貫して、その土地の自然植生樹種を組み合わせて庭を作ってきた理由はそこにあります。

沖縄に、そうした素朴で美しく、限りなく尊い風景があるというのに、その土地の歴史に何の関係もない庭木を用いて、その土地の風土や暮らしと何の関係もない庭園を日常生活の場に作ることの意味が、当時の僕はわからなくなったのです。でも、一生のベースとなる造園技術と感性をきちんと身につけたい、そんな思いから、僕は東京に帰り、風土の自然樹木を尊重して庭を造る茶庭師の下で修業を始めました。そして数年後に独立したのです。

人の暮らしの中から自然が離れ、人も環境も荒れてゆく。その中で今、自分がすべきことは何か。そんなことを考えながら、仕事をしてきました。そうは言えども、人のために環境のために、現代の造園家として何が正しいことなのか。自分のしていることが本当に環境にとって、人にとって、プラスになっているのか。実際には迷いと試行錯誤の連続の中、必死にもがいていたのが当時の自分だったかもしれません。
 
そんな中、最初の転機が訪れたのは、30代はじめの頃のことでした。
神奈川県鎌倉市の工事現場でのこと、山を背負った住宅地の開発に伴い、宅地造成許可基準をクリアするために、やむを得ず裏山のキワに分厚いコンクリート製の擁壁を作ったのです。ところが開発許可申請手続きをクリアして、家が建ち、庭が完成したその後、日に日に裏山が荒れていき、つる植物や荒れ地の雑草が増えてやぶ状態となっていったのです。擁壁設置後、数か月で植生は荒れ果てて地表は乾き、以前のしっとりした鎌倉の山らしさは見る影もなく消えていきました。
今思えばそれは、コンクリート擁壁建設による水脈の遮断と、それにともなう土中の水と空気の流れの停滞が招く、土中環境の劣化によることが明らかなのですが、当時はそんなことすら気づかなかったのです。

学生の頃には砂防ダムや林道設計などの土木を学び、その後は毎日土や木を扱っていた僕でさえ、こうした土木建設工事にともなう土中水脈の遮断がどれほど周囲の環境を変えてしまうか、当時は思い至らなかったのですから、今、建設土木従事者はもちろん、専門家や研究者のほとんどは、こうした自然が織りなす土中環境の変化に思い至らないのが、残念ながら現状なのでしょう。
そして2年後、その擁壁の上のケヤキの大木が、突然に根こそぎ倒れたのです。裏山の環境を守ってきた、100年の大木でした。長年の環境変化を生き抜いてなお元気だった大木が、なぜ突然倒れたのか。根の状態を見ると、地下1.5mより下部が乾燥して根が枯渇し、消えていたのです。
根が張り付いていた岩盤は水脈停滞によって乾き、岩盤の亀裂に伸ばしていた無数の細い根が急に枯れ、この大木は巨体を維持できずに剥がれ落ちるように倒れたのでした。

それを目の当たりにして、自分はこれまで人にも環境にも、健康な場を作ろうとしてきたのに、実際には気づかずに周辺の環境まで痛めてしまっていたことに気づいたのです。愕然とする出来事でした。同時に、大地の環境は土中でつながっているという、当たり前のことに気づかされた、そんな瞬間でもありました。 僕が34~35歳頃のことだったと思います。

その後、全国の土砂災害地や水害発生地、森林の崩壊現場、荒廃林などを意識して見て回るようになり、土中の環境に深く意識を向けるようになったのです。山々を歩き、地域を旅してまわる中、道路一本、ダム一つ、トンネル一本といった、今の建設土木構造物がどれほど広範囲の環境を壊してしまうか、目の当たりにしてきました。人にとって健康で心地よい環境を作ろうと思えば、土の中から健康な土地にしなければならない。そんな思いから、これまで自分が取り組んできたすべての先入観も技術も造作も、徹底的に見直していったのです。そして日々、傷んだ環境の再生に取り組む中、自然環境と共生して豊かさと安全を半永久的に持続させようとしてきた古来の土木造作の中に、現代の私たちが見失ってしまった大切な智慧が次々と見えてきたのです。

僕もかつては土木技術の世界をかじってきましたが、現代の建設土木の世界においては工学・構造力学が技術のベースとなります。土地や地形を安定させたり変化させたりすることで、動的平衡状態へと導こうとする自然本来の働きなど、いまもなお視界の片隅にもないのが、建設土木の現状なのではないでしょうか。その結果、国土はますますいのちを養う環境の豊かさを失い、大規模な災害が起こりやすい脆弱な環境へと変貌して歯止めがかからない。これが現実だと感じます。
現代の建設土木においては、地形を変えようとして崩れようとする自然の働きを、より大きな重量と力で抑え込もうとする、力学的な発想のみで対応しようとしますが、その力比べの果てに自然環境はますます、環境を浄化する力もいのちを養う力をも失っていきます。
一方でかつての土木造作においては、そもそも地形を変えようとする土圧そのものを発生させずに、地形そのものが自ら安定してゆくように仕向けることに注力してきたのです。自然に地形が安定するためには、その大地が健康でなければなりません。かつての人の営みは、その地での暮らしをより豊かにより安全にしていきながら、自然環境をもより豊かに育ててきたのです。
現代の文明の営みは、その多くが自然環境に何らかのマイナスの影響を及ぼしてしまっています。それが事実なのでしょうが、それでは人の生きている意味っていったい何なのか、とわからなくなってしまいます。

長い歴史の中で、風土に根ざして豊かな文化を育んできた先人たちは、その営みの中で環境をも豊かでいのちの生産力の高いものへと育み続けてきた果てに、私たちが生きやすい環境へとつなげてくれました。今、安全も環境も、美しい故郷の山河も何もかも、急速に失われています。それはすべてが一体となった環境のつながりや、守るべきものは何かを、今の暮らしの中で忘れてしまったことに始まります。豊かな環境を取り戻すには、私たちの気づきから。発想の転換、新たな「視点の開発」が必要に思います。
「開発」(かいほつ)とは本来仏語発祥の言葉です。本当の自分に気づくこと、本当の人の在り方、文明の在り方に気づくこと、それが本当の意味での「開発」の意味なのだそうです。
そして、開発(かいほつ)の行為には菩提心が伴います。つまり、自然の真理につながる心が育まれてゆくもの。それが本当の「開発」です。

今の文明における「開発」は、本当の意味での「開発」などではなく、言ってみればそれは単なる「破壊」でしかありません。かつては当たり前だった本当の意味での開発へ、新たな文明社会へと人は進化しないといけません。大切なことは一人一人の気づきから。そのために、残りの人生を未来のために投じていきたいと思います。