被災地にて想う~震災復興という名の戦争   令和3年3月14日

石巻市長面浦の防潮堤

写真は、東日本大震災被災地、宮城県石巻市に建設が進む巨大防潮堤です。震災から10年、三陸海岸線は、巨大コンクリートによって海と陸の分断のための工事が今も続きます。

豊かだった三陸リアス式海岸には今、産業道路が巡り、大型ダンプが砂塵をあげてひっきりなしに通行します。

右側が豊かな汽水域だった長面浦

この防潮堤の右側が、リアス式海岸の入り江汽水域に形成された長面湖です。

 湖畔の集落は古くより、この海の豊かさを共に暮らしが営まれてきましたが、震災後の「復興」と称する強大な力による土木工事は、この土地1000年の営みを戻らない過去へと葬り去っていきました。

こんな光景が、東北太平洋沿岸では、今も延々と続いています。

周辺の切り立った山々から力のある湧水とともに豊富な養分が流れ込む長面湖では、牡蠣の浮遊幼生、種牡蠣の養殖が盛んで、ここから全国に出荷されます。三陸リアス海岸の豊かな自然環境が生み出したもので、有名な牡鹿半島万石浦とともに長面湖もまた、全国各地のカキ養殖を支えてきたのでした。

また、震災前の長面湖集落では、ここで大量に水揚げされるハゼを焼く、焼きハゼが盛んにおこなわれていました。宮城県では古くより、焼きハゼのだし汁を雑煮にする文化がありましたが、長年大地の恵みを受け続けてきたその営みの根幹もまた、戻らぬ過去へと消え去っていきます。

北上町、建設中の防潮堤

 延々と防潮堤が築かれると、海と陸の境目に巨大な重量がかかり、それが陸と海との水脈を分断し、圧迫し、陸側に連続した滞水を生じさせていきます。

また、新たに作られた工事用の産業道路よりも低くなった陸側では、地下水が川にはけずに停滞し、その土中の滞水は周辺山林をも短期間に荒廃させていきます。

 写真右側の山林もまた、荒廃して竹林と化していますが、今回の調査でも防潮堤沿いに限らず、客土され平たんにならされた被災地跡周辺の山林は軒並み、目を覆うばかりに傷んでいる様子はどこも遠目でも分かります

そして、山林が荒れると山は土壌を硬化させて降雨の貯水機能を徐々に失います。やがて、豪雨の際には大地に浸み込まない水が地表流となって低地へと押し寄せ流れ込みます。

山が荒れていなくとも、山の貯水力を超えるほどの豪雨は長い歴史の中で時折訪れるものです。

かつてであれば、浸水は時に起こるものと受け入れつつ、遊水地としての田んぼやため池、川や水路を適切に巡らせ、洪水とも共存しつつ、海と山のはざまにおける暮らしを持続し、豊かな大地の恵みを先祖代々享受し続けてきたのでした。 ところが、こうして巨大な壁で、出水の際に流れ込むべき川や海を遮蔽されてしまったら、その水は容易に冠水、洪水を招いてしまうことでしょう。

防潮堤に点々と設けられた水門

河川よりもはるかに高い防潮堤には、河川水路の出口に水門が設けられ、水はその開口部をくぐってのみ、海に抜けることができます。

津波の際には水門を閉じて陸への水の進入を防ぐという理屈ですが、川を閉ざしてこれらの水門で、将来に必ずおとずれる豪雨の際、水がはけない事態は必ず生じてくるでしょう。台風に伴う洪水の際には流木や土砂やがれき等も流れてくるものであり、それは容易にこうした水門を詰まらせてしまうことは、ここ数年の水害事例だけでも、証明して余りあることです。

気候が荒れ、災害もまた多発し巨大化する時代において、これで安全が高まると考える現実的な裏付けがどこにあるというのでしょう。

今はどこでもいつでも発生する線状降雨帯による連続豪雨の怖さは、一定時間・一定水量を超えた瞬間から先は短時間で完全に貯水機能を失い、一気に表層流が洪水を招くことにあります。10mもの巨大な壁で川を遮蔽すれば、洪水時の危険を増してしまうことでしょう。

 事実、2019年10月、私の地元で発生した千葉豪雨においても、千葉市中心部に流れる都川の堤防に阻まれて、川があるのに溢れる水がそこに流れ込むこともできず、ハザードマップ想定域以外の地域においても広範囲の冠水を招いたのでした。まさに、現代の土木インフラの根本的な過ちというべきでしょう。

北上町被災集落跡地周辺斜面の環境調査

今回調査依頼のあった津波被災地周辺の山林環境を歩き、その荒廃具合を調べていきます。

周辺斜面は岩盤も土もぱさぱさに乾燥し、硬化し、この環境で放置してもなかなか森は再生されずに多くは藪になるだけなのです。 

今回、石巻市において、被災地域の方々の要望を受けて、被災集落跡地を森に還してゆく、その技術指導のためにうかがいました。こうした被災して壊滅した集落跡地は北上町だけで20数か所あると言います。

被災地で出会う方々はみな、家族や親せき、友人や近所の人、同級生や同僚など、身近な方を津波で亡くしています。青天の霹靂の出来事でありながら、まるで戦争と変わらない、こうした状況は巨大災害において、だれしもどこにでも現実に訪れるものなのだと気付かされます

今回私に森作り指導を依頼した女性もまた、家も流され夫も流されて亡くしていたのでした。

彼らにとってのこの10年、そしてその後の「復興」を通して、山が削られて土が盛られ、大きな産業道路に巨大堤防がみるみるできて、故郷ののどかさもぬくもりも奪い去られることにもまた、更なる悲しみとやるせなさを感じたのでしょう。そこで「自分たちになにができるか」との思いから、せめて、取り残された集落跡地を森に還していきたいと願い、その力が結集して、彼らの森作り活動につながったということを知りました。

 今回泊めてもらった地元老舗宿の主人がこう話してくれました。

「たくさん亡くなっている中で、こんなこと言うのは不謹慎かもしれませんが、まあ、津波も恐ろしいものでしたが、その後の「復興」というものは、もっと恐ろしいものだなと。

津波で奪われても、このへんは昔からそれを繰り返してきたのですから。そのまま暮らしを再建してきたのですから。

でも、「復興」といって土地をこんなにしてしまったら、もう二度と昔のような暮らしはここでは取り戻せないでしょう。

ある意味で、「復興」は津波以上に、土地の未来も大事なものも取り返しのつかない形で壊してしまう。」

先祖代々暮らしてきた地域の多くの方々にとって、それがこの10年の実感なのかもしれません。

津波で奪われたもの、壊されたもの、それ以上に、もはや決して基に戻れないほどに、「復興」と称する土木工事が跡形もなく壊し奪い去っていく現実を目の当たりにし、彼らの無念を思い知らされます。

今、我々は巨額の税金を投じて取り返しのつかない負の遺産を未来に蓄積し、千年万年の営みを支えてきた環境の恵みも豊かさまで、断ち切ってしまっている、地元の方が「津波より恐ろしい」というのはそういうことなのでしょう

北上町、入江の防潮堤。巨大なコンクリートブロックは北海道から船で運ばれる。

もはや、低地に人が住めないようにしたというのに、さらにこうして美しく豊かな海岸も、そこでの営みをも壊し、延々と堤防を築く意味は何なのでしょうか。

 作られる前から地元で根強い批判にさらされながらも、この事業は止まることがなく、今後も続くことでしょう。顧みることを忘れ、立ち止まることもできない現代の営みの先にどんな未来があるというのでしょう。

 「いのちを守る。悲劇を繰り返さない」というまやかしの錦の御旗を掲げて有無を言わさずに破壊してゆく、これは「復興という名の戦争」なのだと知りました。

 津波の後は、国破れても山河が残り、また豊かな暮らしが再建できますが、ここで行われている「復興」はその豊かな大地の基盤もかつての暮らし方の基盤をもすべてを永遠に奪い去ってゆく、ある意味戦争以上に国土も文化も奪い去ってゆくのです。

 ここの集落に築かれている防潮堤は、巨大と言えども高さは最大で10数mです。

集落を襲った津波は高さ20mに達したと言います。津波に流されて生還した男の子は、杉の木のてっぺんにしがみついてなんとか助かったと聞きました。

今回の震災と同様の津波は歴史上、また必ず襲うことでしょうが、その時この防潮堤でも無力に等しいことは、当時の津波生還者であれば容易に分かることのはずなのです。

 水害の危険を増し、周辺環境を破壊し、故郷を別物に変えてしまい、海と川と山を分断し、そしてそこまでしても津波は完全に防げるものではありません。

 我々は戦後の営みの中で、擁壁や堤防など、人工を築いてそこに過度の安心をゆだね警戒を緩めてしまった、その積み重ねもまた、津波における人的被害を増した理由の一つであることでしょうし、その後、更なる巨大な人工で、自然を力任せに抑え込もうとする現実を招いていることでしょう。

 この10年でこれほどまでに国土の一角を変えてしまうことができるほどの、恐ろしい土木技術を手に入れてしまった今、それが結果的に現代未来の豊かさ、暮らしの再建力の根本の大事なものを奪っていることに早急に気づく必要があることでしょう。

令和3年福島沖地震にて発生した液状化に伴う亀裂と段差。大きいところで数十センチの段差が生じた。

これは津波被災地、女川町に新たに再建された港湾です。津波にも地震にも耐えるように作られたはずの真新しい海岸擁壁も、今月2月に発生した福島県沖地震で、最大数十センチに及ぶ段差や亀裂があちこちに生じていました。

 かさ上げしようとも、人工で盛られた地盤に滞水させてしまえば、大地や山地においても液状化を起こしてしまうこともまた、熊本地震や北海道胆振東部地震でも無数に示されていることです。現代の力任せ一辺倒の土木建設の発想で作られたものには、「雨降って地固まる」ことなどないのです。

地震にも津波にも負けない強靭な都市と謳う女川町の震災後の舗装において、こないだの一回の地震でもろくもマンホールが浮き上がる。こんな場所が無数に見られた。

先日の地震に伴い、液状化でマンホールのコンクリートごと持ち上げられて傾いた個所も、あちこちで見られました。

 2月の地震は、「結構揺れたけど、東日本大震災に比べると全く大したことなかった。震度6弱と6強とでは全然違う。」と、案内してくれた地元の方が言いました。

 それなのに、東日本大震災の経験のもとに、「強化」され、巨額を投じて新たに作られた「人工未来都市」のいたるところで、10年前の大震災にはるか及ばぬ地震一つで、もろくも道路が割れ、液状化を起こし、インフラがあちこちで壊れるのです。

 災害の度に行われる対策、強靭化とはいったい何なのか、こうした現実からも考えさせられます。

そのどこに、安全も安心もあるというのでしょう。

都合の良いエビデンスに武装され、見た目の強靭さの誇示が作り出してきた、安全の幻想を、今こそ乗り越えねばならないことでしょう。

再建された神社。右は山を削って高台平坦地を作り、移転された住宅地

 山を削り取って高台に造成されてそこに新たな住宅が移転されます。

その山中にあった神社もまた、人工斜面に危うく張り付くように作られる。これが復興の成功事例と誇る女川町の現実を表しているようです。

 神社や祠は本来、集落にとって大切な環境上の要の地を守るためにその地に配され、信仰心でそれを守ってきたもの。

それを木を伐り谷をつぶし、斜面を人工的に成形して、木もなくそこに社殿を建てる、こうした形で復興された神社に一体何の意味があるというのでしょう。何をやっているのでしょう。どうしてこうなるのでしょう。誰がこんな馬鹿げたことを計画するのでしょう。

土石採取にために切り崩される周辺の山域

周辺の山を切り崩しての土石の採取は今も激しく続き、土砂を運ぶ大型ダンプが行き交います。

そして、土砂採取のあとはまた、直線的人工的に土地が成形されていき、元の地形は見る影もなく変貌していきます。

入江周辺の谷筋は平らに成形され、川はコンクリートの水路となる。

震災後、いたるところの谷筋自然河川は埋め立てられ、そしてこうしたコンクリート三面張りの水路が配されます。

「震災前はここにたくさん魚がいて、白シメジとかおいしいキノコがたくさん採れたんだ。」

案内してくれた地元猟師さんが無念そうにそう言います。

谷を埋めたその周辺の斜面林

谷を埋めた周辺山域は荒れ、いたるところで倒木が見られます。

山に浸み込んだ水は谷から湧き出すのが本来の健康な状態なのですから、その谷を埋めてしまえばもはや、山はそのままではいられないのは当然のことです。

だからこそ、かつては谷に龍神を祀り、木々を保ち、崩壊箇所に石を積んで、谷が埋まらないよう、安定して水が湧き続けるよう配慮したのですが、現代は自然地形の意味は専門家と称する人たちも理解せず、かつては言葉にするまでもなかった程度の当たり前のことすら分からない、その果てにこうした人為への過信、人工への過信が、これほどの取り返しのつかない事態を招いたのでしょう。

地震や津波ではなく、その後の「復興」による国土破壊こそ、取り返しのつかない未曽有の事態に思えます。

高台を盛って作られる新たな道路が山を貫く

その土で谷を埋め、平たん地をつくり、そして沿岸道路をかさ上げして直線状に作られます。その沿線の山は切り開かれ、その斜面もまた人工的に成型され、擁壁が築かれます。

今は地形を無視して直線状に道路を通すため、その周辺地形は大きく削り取られ成形され、道路を通す度にそこから周辺環境は激しく荒廃していきます。

コンクリートで固められた入り江の河川。雨なのに水はない

かつてはウナギなど、魚がいくらでも取れたというこの川も、海岸出合でこうしてすべてコンクリートで固められていきます。

そうなると、山の呼吸も停止して湧水も止まり、平時には川の水もなくなります。

この日は一日中雨だったのに、ここに水が流れていない不自然さが何を意味しているのか、そのことを伝えてゆく必要を改めて感じ、決意新たにします。

川というものを単に不要な水を排水するための「装置」にしてしまった現代、そのなれの果てが、こうした光景なのかもしれません。

川というものは周辺環境から地下水を集め、そしてまた周辺環境へ地下水を供給し、周囲を適度にしっとりと潤しながら流れるのが本来の姿です。つまり、地下水とのつながりの中で、川があり、土地を育みます。

そして、地下水を通して川は山と一体になり、その呼吸を保ちます。

こうして固めてしまえば周辺からの地下水が集まることはなく、また、山も水が浸み込まなくなるために平常時の水量は減少する一方で、豪雨の際には大量の泥水が集まるのです。それを「排水」することしか考えない挙句。洪水と堤防の果てしないおかけっこが続き、その末に大地が荒廃していくのが現実なのです。

被災地で行われる愚かな建設土木は、これもまた人間が、自然を勝手に仮想の敵とみなして、一人相撲のように戦争を仕掛けているかのようです。

一刻も早く、こんな馬鹿げたことはおしまいにしないといけません。

写真の二人は、土木作業員。雨の中、竹ぼうきでひたすらこの巨大なコンクリートの上を掃き続けている姿もまた印象的でした。

雨の日、この巨大コンクリートの上を竹ぼうきで履き続ける意味は本来どこにもないでしょう。

無意味な仕事を、考えずにやり続ける。

「何のため?」そんな疑問は、このおかしな世界には不要なことなのでしょう。

 彼らになんの罪もありませんが、現代社会が生み出す不幸でこっけいな現実が、この光景が如実に表れているように思います。

リアス式海岸沿いに巨大堤防を遠望する

入り江と山のキワに延々と築かれた巨大なコンクリートが遠望できます。

東日本沿岸ではこうして、海岸線を遮断し、そして山と海との地下水の繋がりを断ち、もはや元に戻れないほどに環境を荒廃させ続けられています。

何が地域を壊してゆくのか、地元の方が「津波より怖い、その後の復興」という意味が、この日の踏査で実感として嫌というほど伝わり続けます。

海と山を分断して双方の豊かさを奪い、そして人の暮らしも文化もそこから追い出してまで、一体何を守ろうというのでしょう。

リアス式海岸の入り組んだ入り江と切り立った山、湧水が繋ぐ海と山の豊かさこそが、昔からの三陸海岸の暮らしと文化を作り上げてきました。

今、石巻周辺の海ではここ2年ほど、磯焼けと言われる海藻の枯渇、いわば海の砂漠化が激しく進み、魚も激減したと聞きます。

廃業した水産会社の方々や辞めていった漁師さんたちも今、ダンプの運転手など、土木工事にシフトしていく人も多いということも聞きました。

しかしその雇用の受け皿は、いつまでも続くものではなく、終わった後にはここでのかつての豊かな暮らしは何もない、まるで戦争の後の焦土が残るのに似ています。

そして、この巨大コンクリートによる負の遺産はいつまでもここに留まり、過去連綿と続いてきた土地の営みも文化も、豊かさも、すべてがもはや復興不可能なほどに奪い去ってしまうのです。

大勢の犠牲者を出した大川小学校跡

たくさんの児童が津波に流されていのちを落とした石巻市立大川小学校跡です。コンクリートの廃墟は残りましたが、子供たちもこの学校の営みも、もはや戻ることはありません。

裏山に逃げ込んでいれば多くは助かったことでしょう。それをせず、これほどの犠牲を出したことは、文明への過信の末に命を守るための大切な感覚すら失ってしまった現代の行く末とも言うべきでしょう。

大切な向き合い方を取り戻すこと、様々な自然の姿と敵対せずに共生し、時にやさしく時に厳しい自然を師として親として向き合ってきたかつての姿勢を取り戻すことこそ、二度とこの悲劇を繰り返さぬために必要なことなのではないでしょうか。

そして、旧大川小学校校舎はこのまま、津波の恐ろしさを伝える記念碑のごとく残されますが、これが、今の「復興」という名の未来の破壊への免罪符、錦の御旗、水戸黄門の印籠のようなものにならないことを願います。

先の大戦で、「お国のため」と称して、あらゆる正当な言論も行動も封印して破滅の道に突き進んだ愚かな歴史が、今の震災復興で繰り返されているようです。そして、戦争時代の指導者たちの愚かさに、さらに今は拍車をかけて再現されているように思えてなりません。巨額の税金を投入し、自らの手で国土の豊かさを破壊し続けているのですから。

もはや、美しく豊かな漁場も旅情も土地の風物詩も魂を失い、そして、もう戻ることはありません。

歴史上、。幾度も襲った三陸の津波ですが、それは防ぎようがないという前提で、それを節度としつつ、この地において代々豊かな暮らしを享受してきたのでした。そして津波等の自然災害の度に、人間の慢心を厳父のこぶしが打ち砕き、悟らしめ、人は慢心を反省し。本来あるべき生き方へと再びシフトしてきたことでしょう。

代々続いてきた敬虔な暮らし、それを根底から奪ってゆくのは、津波ではなく、自然を忘れ人為に慢心した今の文明であり、現代に生きる私たち自身なのでしょう。

償いきれない罪を、われわれは今、未来に対して、子供たちに対して、生きとし生けるすべてに対して背負い続けているのです。

東日本大震災から10年。この時期に被災地を訪ねることができたこと、その意味をかみしめて生きていきたいと思います。

お招きいただいた一般社団法人ウィーアーワン北上の皆様、ご案内くださった牡鹿半島の気骨と心ある猟師 小野寺望さん、どうもありがとうございました。