田んぼの形と水の扱いから
先人の智慧、というとき、「先人」とはいつ以前の時代の人たちなのか、そう聞かれることがしばしばあります。
それは一概にくくることはできないでしょうが、日本の国力を潜在的に支えてきた農山村地域において見てゆくと、戦後社会の激変が一つの大きな境目として考えられます
戦後に何がどう変わったのか、ここでは、田んぼにおける水の扱いから見ていきます。
傾斜に応じて細やかに土地を刻んだ伝統的な田んぼの光景は今、山間地の棚田など、ごく一部には今も残ります。
その光景は美しく、その形は地形に従って無理がなく、そこには人工的な直線はどこにもありません。
そして、畔で区切られた一枚一枚の田んぼのカタチも一区画の大きさも、一つとして同じものがないのです。
なぜ先人たちは田んぼをこんな形状に刻んだのか、そこに戦後の圃場整備の発想とは全く異なる、先人たちの理にかなった視点と大切な技が隠れています
田んぼの形状が現代普通にみられるような長方形に区切られるものになったのは、戦後の圃場整備によります。
圃場整備がなされずに今なお伝統的な田んぼの形状が残るのは、急傾斜地の棚田や山奥の谷筋に連なる谷津田(やつだ)など、今やわずかとなりました。しかもその多くは耕作放棄され、荒れた竹林や藪に埋もれてしまっている箇所が多く見られます。
戦後の圃場整備を免れ、現在もなお耕作される田んぼは今や貴重で、そこに人知れず、稲作伝来以来2000年間に及んで矛盾なく持続してきた叡智の結集が込めれているのです。
かつて棚田を作る際、その最上部は山間の谷筋や段丘状の土手際など、土中に豊富な水の集まる箇所から始まります。そして上部の山々が健康であれば、谷筋に集まる水は絶え間なく土中を伏流し、土地に鍬を入れると、いたるところで水が浸み出して流れ出します。
こうした箇所で水を湧き出させるためには、等高線に沿って段状に垂直の崖面を作っていきます。
そして、その面の水の一部がじわじわと土中を通過して下段へと湧き出しを集めるために、田んぼの形状を湾曲させて勾玉のような形を連続させることが多くなります。
その形が、傾斜地の谷地形において自然地形に従った形状でもありますが、微妙な地形の差異や土中の水の集まり具合を読み取りながら刻んでゆくと、一枚の田の大きさは自ずとすべてが異なるものとなります。
地形を読み取り、見えない伏流水の動きを体感的に把握しつつ、鍬で土地を造作して水を湧き出させ、そして平坦面を作って水を溜めていきます。
湧き出す水量がおおよそ均等になるように、土地に鍬を入れ、水の湧き出し箇所を確認しながら刻まれたのが一枚一枚の田んぼの形状となるのです。
湧き出す水が多すぎる箇所では棚田の山側のキワに素掘りの溝を掘ってそこに水を集め、その水はまた下部の棚田を潤します。
地形を刻むことで伏流水を湧き出させて利用しながら、また浸透させて下段を潤す、各区画に、送水と受水(湧水)のバランスをとりながら、棚田上部の山々と一体になって絶えない水の動きを巧みに誘導してコントロールしてきたのが、かつての田んぼの営みであります。
そしてその量を調整するために溝を掘り、木製の堰板や藁の束などで、流出する水量を調整して水面の高さをコントロールします。
用水路から水を引き入れずに成り立つ棚田のことをよく「天水棚田」と呼ばれます。
そう聞くと、雨水を溜めて成立する田んぼというイメージが持たれがちですが、そうではなく、山間における絶え間ない土中の水の湧き出しによって、本来の天水棚田は成り立ってきたのでした。
のちの連載で後述しますが、それが2000年以上前の日本における稲作発祥の姿でもあります。それを成り立たせるためには、環境を読み取り水脈を感得してそして水を湧きださせる技術、水の動きを妨げずに地形を安定させる技術が必要になります。
現代の技術体系の中で忘れられてしまった、そんな技と視点こそが、2000年以上の稲作の営みを支えてきたと言えるでしょう。
戦後の圃場整備においては、そうした伝統的に培われてきた視点は途絶え、用水路を設けてどこかから水を運び入れ、それを一枚一枚の田んぼに溜めてゆくという、そんな視点で行われます。
そこには、「伏流水の動きを健全に保つための形状や大きさ」という発想がなく、地表の水の供給と排水だけで人工的にコントロールして完結させようとします。
そこには自然にそぐわぬ矛盾が次々と生じるのですが、戦後の営みの中でこういう過程をたどることになったのはやむを得ぬことでしょう。
絶えず変化する土中の水の動きを読み取るとなると、それは誰にでもできることではなく、現代の画一化された大規模な土木手法では対応できなくなるからです。
もちろん、平野での田んぼの営みには溜池と用水路による田園への水の供給は古くから行われてきましたが、それは現代の用水路の作り方や視点とは全く異なるもので、このこともまた後の項で見ていきたいと思います。
土地の区画は機械作業の効率を重視し、均一で直線上の形となります。小川も道も、長方形の田んぼ区画に応じて直線状に整形されます。
川の形を無理やり直線状に変えてしまえば、河岸は安定せずに崩れるため、コンクリートや鋼板などによる護岸の抑えが必要になります。
川岸が遮蔽物で押さえつけられると、田んぼの余剰水は土中を介して川へ抜けず、滞水しやすくなります。
そしてそのことが山と一体となって続く伏流水の動きも停滞させて、徐々に山は荒れていきます。そうなると水の健全な湧き出しは減少して、その後の田んぼはますます用水の引き入れに頼らざるを得なくなっていくのです。
棚田のお米、谷津田(両側を山に挟まれた谷筋に連続する田んぼ)のお米は昔からうまいと知られます。
また、水の良いところはお米もうまく、まさに水の力がお米を育ててきたと言えるでしょう。そして、湧水には周辺の山々由来のミネラル等も豊富に含まれて、そして水は地上部だけでなく健全な土中を通過することでその都度、濾過・活性化が繰り返されます。
その土中の環境を乱さぬ土地への向き合い方が、代々悠久の田んぼの営みを持続させてきたのでしょう。
戦後の圃場整備によって土中を介した水と空気の動きが一変すると、そこから里山の荒廃も始まり、同時に田んぼの土中環境も大きく変わっていきます。
圃場整備によって実際に何が変わるのでしょうか。
10年程前のこと、千葉県いすみ市にて、自然栽培にてお米を作っていた農家さんの谷津田にも、ついに圃場整備が入りました。
圃場整備前までは無施肥で反当り6~7俵の収量が持続していたのですが、圃場整備後、反当り2俵と、収量は3分の一にまで激減したと言います。
その後、農業指導者のアドバイスでヨウリン等の化学肥料を入れることでようやく収量が回復したと聞きました。
つまりは、それまでこの土地における代々の収穫を継続していた田んぼが、圃場整備によって、自然の恵みのままに収穫を持続させることのできない田んぼとなったのです。
戦後、土地環境に関係なく画一的に行われる圃場整備、それに伴う水路の改修は、土地環境の循環を少なからず壊してしまうことが、こうしたことからも分かります。
戦後の食糧難からの復興のためには、その時代の選択は決して間違いとは言えず、必要だったことでしょう。
なおかつ、同時に入ってきた農薬と化成肥料、農業機械によって、それまで以上の収量を簡単にあげていったのですから、それまで2000年以上の蓄積を持つ伝統的な方法と視点は捨て去られ、考える暇もなく、短期間に塗り替わっていったのは当然のことでしょう。
ところが今、土地の風土環境、土中環境の健康を顧みずに行ってきた、自然に対する現代の向き合い方が、自然環境に対して深い矛盾をはらんでいることに多くの人が気づき始めております。
今だからこそ、われわれはかつての矛盾のない先人の営み、その意味を学びなおす必要があるのです。
里山と田んぼの風景、それは豊かな大地の記憶を呼び起こすようです。
田んぼの向こうの山あいの、絶えない水に感謝し、山々に感謝し、そして先祖に感謝する。その中で温かな社会、豊かな実りと共に2000年以上の国土環境を守ってきた一端に、伝統的な田んぼの営みがありました。
そしてその中に、我々が目指すべき持続可能な未来のために、取り戻さねばならない視点と技が無数に散りばめられているのです。